桜の記憶

今年もまもなく桜の季節がやってきます。

近所の団地の敷地内を走る道路沿いは
みごとな桜並木になっていて
道路の両脇から枝を大きく伸ばした桜が
ピンク色のトンネルのように続くのです。

毎年 桜が咲くと
あの人は
夕暮れ前のぼんやりした光のなか
自転車を漕いでそれを見に行くのを楽しみにしていました。

家族思いのあの人が
そのときだけは
妻や子供を家において
一人で出かけて行くのです。

だれにも邪魔されず
ひとり 桜を愛でにいくのだ と言わんばかりに。


ある年の春
薄暗くなったころ家に戻ってきたあの人を
見かけたことがあります。

頬をほころばせ
ガニマタ気味に自転車にまたがって
なぜか できるだけゆっくりと自転車を漕いでおり
そのせいで車輪は慣性を失い
まるで酔っぱらいの千鳥足のように蛇行していました。

そのときのあの人の
満ち足りた 幸せそうな顔が今でも忘れられません。

もしかすると
本当に桜に酔っていたのかも…と
最近は 桜の季節が近づくたび 思い返しています。